薬王院温泉寺

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烏湯伝説

北陸を代表する名湯、山代温泉の開湯は、神亀2年(725)。
温泉縁起には、霊峰白山へ登拝に向かっていた行基上人が、紫色にたなびく雲の方向へ向かっていくと、
一羽の烏(ヤタガラスまたは中国の3本足の霊鳥ともいわれています)が
水たまりで翼の傷を癒しているのを見つけ、温泉を発見したという逸話が残されています。
当館の源泉は、この烏湯伝説の泉であり、山代温泉発祥の湯元でございます。
さて温泉は発見されてからしばらくの間、
主に農民や町民が田植えの泥落としや稲刈りの慰労などに利用していました。
しかし、後に温泉の本尊 ・ 薬王院温泉寺に法皇の直命によって七堂伽藍が建立されると、
山代温泉と薬王院の名は全国的に広まり、
それ以降 明智光秀や加賀藩初代藩主・前田利家など、時の権力者たちも湯治に訪れるようになりました。

お殿様の湯番頭

寛永16年(1639)、大聖寺藩十万石の初代藩主として加賀藩から分封された前田利治は、
以前から山代温泉に自らの特別な湯壷をもっていたほど、山代温泉を厚遇していました。
その利治から湯壷の鍵を預かる湯番頭の役目を与えられたのがあらやの初代館主、荒屋源右衛門です。
代々の藩主をお迎えする湯壷の鍵は、 代々の館主によって大切に受け継がれ、
現在の総湯が建てられた16代源右衛門(現館主の先々代)の時代まで、当館に保管されておりました。

湯の曲輪と山代の発展

文化末年(1817)の頃、山代にはすでに19軒の湯宿がありましたが、
そのうち湯壷(内湯)を2つ持つのは、あらやのほか5軒だけでした。
当時あらやの湯元から総湯へ、総湯から各湯宿へ松ノ木をくり抜いた配湯管で湯をひいておりました。
そのため、総湯をぐるりと取り囲むようにして宿が建ち、街並みがつくられたのです。
このように湯を囲む湯の側の意味から、総湯周辺を「湯の曲輪(ゆのがわ)」と呼ぶようになり、
今も山代温泉の中心として多くの浴客を迎えています。

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